今回の沖縄県立博物館・美術館で一番残ったのは、作品そのものよりも、自分が世界をどう分けて見ているかだった。美術館側では精神世界に深く入った人の表現に強く反応し、博物館側では物理的な歴史にあまり反応できなかった。その差を見たことで、自分はいま情報世界側に少し寄っているのかもしれないと思った。
草アートと歴史との距離感
1階の草アートが一番残った
美術館では三つの展示を見た。1階には一般の人の作品、2階には映像作品、3階にはプロの作品や沖縄の美術史があった。その中で一番印象に残ったのは1階の作品だった。精神疾患を抱えた人が作ったように見える作品が多く、技法や歴史というより、その人の精神世界がそのまま出ている感じがあった。医学的な定義とは別に、自分の中では精神疾患を病というより、精神世界や情報世界に深く入り込んだ状態として見ている。その視点で見ると、作品群は精神世界を極めた人たちの記録にも見えた。
意図がないから余白がある
その作品群には、プロの作品にある技法や鑑賞者への明確なメッセージがほとんど見えなかった。直感と感性だけで作られていて、一つ一つの味が全然違う。自分の中ではかなり草アートだった。意図が薄いからこそ、見る側が勝手に意味を置ける。ペンの流れを追っていると、途中で急に狂ったように見える箇所もあり、そこに頭の中でツッコミを入れていた。意味がないのに意味があるように見える感じがあり、高度なエンタメとして面白かった。
プロの作品との違い
2階の映像作品は古い白黒映像で、何を言っているのか分からず途中で退席した。3階では一人の芸術家の作品と沖縄の美術品の歴史を見た。そこは一目で技術力やメッセージ性が違い、プロの作品という感じがあった。ただ、自分には表現の技法や歴史的な意味までは分からないので、印象は「すげぇ」くらいで止まった。むしろ技術や意図が少ない草アートの方が、素人の鑑賞者としては余白に入り込みやすかった。やはり自分は芸術品よりアートの方が好きなのだと思う。
博物館は物理世界だった
博物館側には沖縄の生物、文明、歴史が展示されていた。化石や骨董品や物理的な資料はたくさんあり、一通り見たし、気になるものは写真も撮った。それでも感想は「へぇ」くらいで止まった。たぶん自分は歴史そのものにそこまで興味がない。歴史や伝統を大事にする人は、物理世界に寄った感覚を持っているのかもしれない。残っている物、積み上がった時間、継承された形式に価値を置く感覚だと思う。
建物の構造が自分の世界観に近い
沖縄県立博物館・美術館は、右にアートや芸術があり、左に博物館がある。その構造が、自分の考えている世の中の構図にかなり近かった。右側に情報世界や精神世界があり、左側に物理世界や歴史がある。ただし真ん中に点はない。おそらくその点は人間なのだと思う。設計者が意図してこの構造にしたのか、偶然そうなったのかは分からない。それでも自分の視点と建物の構造が合っていて、妙な親和性があった。
興味がないものにも触れる
博物館には強い興味が湧かなかったが、分からないものや興味の薄いものにも一度触れてから判断したいとは思った。歴史や伝統も、今の自分にはメリットや意味が薄く見えるだけで、どこかで急にインスピレーションにつながるかもしれない。美術館側に強く反応し、博物館側には薄く反応したこと自体が自己分析になった。自分はいま情報世界側に偏っている可能性がある。
左右の間に立つ
物理世界と精神世界は切り離せない。物理世界に寄りすぎると何も考えずに流されるし、精神世界に寄りすぎると現実の生活が疎かになる。沖縄県立博物館・美術館では、その二つが左右に分かれて置かれているように見えた。真ん中に立つ人間として、自分がどちらに寄っているのかを見られたことが今回の収穫だった。