大衆に価値を提供すること自体は避けられないが、大衆の流れに飲まれることとは別だと思う。短期的に数を取るなら時代の心理や影響力を使えばいい。ただ、それで成立するものは本質ではなく、長期的には時代のおもちゃになる。自分が作りたいのは、宣伝や個人の露出を外しても残る構造だ。
影響力をノイズとして切り捨てる
消費される場所に飲まれない
大衆は基本的に消費者だと思う。自分が人生をかけて積み上げたものでも、大衆にそのまま向ければ数日、数時間、数分で消費される。そこへ価値提供することは必要だが、消費されることに合わせて自分の基準まで下げると、長期的には何も残らない。提供者として消費者に向き合うことと、消費者の流れに巻き込まれることは分けた方がいい。
入口は低く細部は高くする
大衆だけを見ても偏るし、プロだけを見ても偏る。プロの意見を鵜呑みにするのも、大衆の意見を鵜呑みにするのも違う。必要なのは、入口では抽象度を下げ、細部では抽象度を上げる設計だと思う。細部まで見ないと分からない深さを持ちながら、細部まで見なくても入れる。大衆もプロも動かせるものは、この二重構造を持っている。
影響力は価値の証明にならない
影響力を持っている人は、いいものも悪いものも広げられる。だから影響力で広がったサービスや商売を見ても、それが本質的に価値を持つとは限らない。商売は付加価値だから、その時代の心理に乗れば成立することはある。ただ、それは短期的な成立であって、時代が変われば簡単に廃れる。影響力を価値そのものと見誤ると、本質を見る目が鈍る。
宣伝なしで広がるものだけを見る
傑作、いいアイデア、いいビジネスモデル、いい作品は、時代に関係なく語り継がれると思う。本当にいいものは宣伝ではなく口コミで広がる。インフルエンサーが宣伝して成立するものには、自分の中では本質的な価値を感じない。宣伝しなくても広がるなら傑作で、口コミで広がらないなら、そのアイデアはその程度だったと見るくらいでいい。
人の心理を利用する美しさのなさ
影響力の武器のようなものは、その時代の損得で動く大衆心理を利用する手段に見える。社会がそう回っていることは分かるし、短期的に金を稼ぎたいなら使えばいい。ただ、自分はそこに美しさを感じない。俗人的なファンで成立するものは、ビジネスやアイデアというより宗教に近い。人の心理を利用して承認欲求や金に変えるやり方は、自分の中では卑怯な手に見える。
語り継がれることで死なない
自分はいずれ物理的には死ぬ。それは変えられない。ただ、アイデア、ビジネスモデル、構造、作品は、本当にいいものなら情報空間の中で語り継がれる。アインシュタインも織田信長も豊臣秀吉も、物理的には死んでいるが、人々の記憶の中では死んでいない。自分が求めているのは、たぶんフロー不死だと思う。そのためには、時代の断片を利用するより、本質的なものを作るしかない。
時代のおもちゃにならない
プラットフォーム上の影響力やファンにうぬぼれると、いずれ消えるものに自分を預けることになる。大衆に合わせることも、自分のエゴだけを通すことも違う。見るべきなのは、本質的にいいもの、本質的にいい構造、本質的にいい作品かどうかだ。宣伝はしない。影響力をノイズとして切り捨て、口コミだけで広がるものを作る。そこから外れると、時代に溺れてしまうと思う。