不快が人を動かすエネルギーになる

最近、テストステロン系の人がかなり増えている感じがある。ここで言うテストステロン系というのは、筋トレをしたり、体を鍛えたり、マッチョさや身体の美しさを競ったりする人たちになる。たぶんこれは今の時代の一つの現象で、一定の需要や市場がある。

消耗の説明だけでは納得しにくい

そういう人たちがよく言っているのが、自慰はよくない、するな、という話になる。一応それっぽい理屈はついていて、エネルギーを消耗するからという説明もある。ただ、それを言うなら筋トレの方がよほどエネルギーを使うはずで、その説明だけではあまり納得できない。言っている意味は分かるけれど、ここはかなり哲学的な領域で、表面の理屈をそのまま信用してはいない。

性行為だけがよいとされる違和感

よく、性欲が強い人は成功するとか、女性とは関係を持った方がいいという話もある。つまり、性行為はよくて自慰はだめ、というような空気がある。けれど、単純にエネルギーの消費で見れば、むしろ性行為の方が大きいはずになる。そこで、なぜそちらの方がやる気やテストステロンにつながると語られるのかを考えていた。

快より不快が強い

自分の感覚では、そこにあるのは快ではなく、不快の強さではないかと思っている。一度満たされると、その瞬間は強い快がある。ただ、そこで終わらず、また欲しくなる。もう一回欲しいのに、すぐにはできない。四六時中できるわけではないから、できないという不快が残る。その不快が人を動かす原動力になっているのではないかと感じる。

欲望を追うと不快が循環する

だから、女性を追いかけることでエネルギーが循環するという理屈は、快のエネルギーというより、満たされない不快が残り続けるから成り立つのではないかと思う。快楽を求めて動いているように見えて、実際には快が得られない不快の方が人を強く動かしている。人間が動くときには、快より不快のフックの方が強い。

禁欲も不快を残す仕組みになる

これをテストステロン系の話に戻すと、自慰をするとすぐ満たされてしまうので、不快が残りにくい。だからだめ、という理屈ならまだ納得できる。一方で、禁欲も結局は、できないという不快を作る。その不快がエネルギーになる。表面の説明ではなく、裏側から見ると、言われていることの本質が少し見えてくる。

不快をエネルギーのフックとして使う

自分なりの理論では、人を動かすのは不快になる。自慰をするなというより、自慰できない不快がエネルギーになる。性行為そのものが偉いというより、できない不快がエネルギーになる。その不快が、行動のきっかけやエネルギーのフックになる。だから、不快をうまく利用できればかなり使えるのではないかと思っている。